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2008年2月16日土曜日

ダルクローズ的教育ペシミズム

先に引いたダルクローズの本の中で、印象に残った箇所の一つがこれ。

「だが、多くを求めて人に恐れを抱かせてはならない。そんなことをしても、何も得るところはない…。他人のために〈より良いこと〉を望む者、他人に何かを──彼らが、自分が持っていないことに気づいていない何かを──求めるべきであると気づかせることによって、彼らの平安をかき乱す者を待ち受けているのは、悲嘆と落胆である。自分のことだけ考えて、あるがままの現実に満足して幸せに生きるがいい。他の人はみんな現状に満足しているのだから…。」『リズムと音楽と教育』山本昌男訳、全音楽譜出版社、p.14(訳文の一部変更)


ありふれた話かもしれないが、これは身につまされる。「知らぬが仏」ということわざが、かなり限定された部分になるが、ここに重なり合う。フロイディアンならここで防衛機制について語るかもしれない。

ダルクローズはもちろん、こうしたペシミズムは跳ね返すべきだと言っているのだが、あまり説得力がないというか、彼の本を読んでいると、とにかくそんなペシミズムは力任せに振り切って、強引に前進していった感じだ。体力気力がないと参考にならないというか…。いや、「汝の欲望をあきらめるな」と言うではないか…。

次はジョン・ホルト『ネヴァー・トゥー・レイト 私のチェロ修業』松田りえ子訳、春秋社から:

「生徒たちが教えられたことを学ばない。その理由の大部分は、自分はできないと生徒たちが思い込んでいるからだ。」(144)


この本当に不思議な心理にはいたるところでぶつかる。『ブリキの太鼓』のオスカーではないが、「成長」することを恐れている、「成長」したくないという心理がいたるところに蔓延している。もちろん、これも、ダルクローズ的な絶望の原因の一つだ。要するに、「教える」ことの難しさ。

年配になってチェロを始めたいきさつと洞察を綴ったホルトは、もともとアメリカの教育界で活躍してきた人だった。で、こんなことも書いている。

「可能性には限界がないのだろうか? もちろん、限界はある。でも私たちが思っているよりずっと遠くにある。」(126)


その通り。でも、それを分かってもらうのが難しい。

で、こうしたダルクローズ的ペシミズムを回避して学びの実効性を上げるための技術として、昨今は一部(どちらかというと「ビジネス・経営」系)で「コーチング」がもてはやされたりしているわけだ。もちろんそこから学び得ることは多い。「コーチング」に関しては、牛が汗をかいたり棟が一杯になってしまうほど書籍が出ているし、ネット上にもいろいろ転がっているだろうから、ここでは詳述しない。ちょっと面白いのは、もともとテニスコーチで、音楽家向けに『演奏家のための「こころ」のレッスン』も書いたガルウェイの名が、「コーチング」の始祖の一人として挙がってくることだ。

2008年2月15日金曜日

ダルクローズの拍節憎悪

ダルクローズが拍節に対する憎悪をぶちまけている文章が面白い。

「リトミック」の元祖ダルクローズの著作は、つい最近初めて読んだのだけれど、その中で拍子、拍節をリズムと対立させて攻撃している部分がとても興味深い。

『リズムと音楽と教育 新版』の第13章「リズム、拍子、気質」という、1919年に書かれた文章。

ここで、ダルクローズは、明らかに拍節をメトロノーム的な均等拍として理解している。もし拍節がほんとうにそのようなものであるなら、ダルクローズの憎悪はもっともだ。ダルクローズは拍節に関する通念にのっとって、それに対する反対意見を述べているのであって、その基盤になっている通念は(今日にいたるまでごくありふれた)誤解、すべての拍は均等だという誤解だと思う。つまり、ダルクローズが否定しているのは均等拍であって、本来の(とぼくが考える)拍子、拍節ではないのだ。

「知的産物である拍子は、機械的な仕方で生命の要素とその組み合わせの連続と秩序を司るのに対して、リズムは、生命の本質的な諸原理の総合性を確立する。拍子は反省から生まれ、リズムは直観から出現する。大事なことは、リズムを作り上げている持続的な動きを拍節的に規制することが、この動きの本質や特質を損なわないことである。(226f.)

「今日、音楽教育は[...]音楽の学習をリズムの方に向かわせる代わりに、拍子の方に向かわせている。拍子だけに意を用いることに心を奪われて、入念な訓練によって、動きへの衝動の開花に有利に計らうことを怠っている。同じことが、我が国の最も著名な専門学校[アカデミー]で、もっぱら身体的テクニックのセンスがきめ細かく指導されているダンスの教育においても行われている。この教育が目指すのは、拍子的精神の勝利であって、気質の発達のおかげで、自然な身体的リズムが開花することに力をかす代わりに、身振りや動きの勝手気ままな連なりに規制を加えることで事足りているのである。(227)


ここに、「拍子/リズム」と重ね合わされている「反省/直観」「意志/気質」「規制/自発性」といった二項対立の道具立てを見て取ることはたやすいし、20世紀初頭の「生の哲学」の流行にのっていることも明らかだと言っていい。

「驚くほどよく制御されている機械は、リズムではなく、拍子で制御されているのである。(228)

「拍子の意図的な訓練は、規則正しさを確立してくれる。──この規則正しさがどうしても必要な場合もある。しかし、このように終始機械的に秩序を追い求めることは、生の自発的な発現という性格を不自然に歪める危険をはらんでいる。拍子は人間のために創られたもので、人間にとっては道具となってくれるものなのだが、この道具は、往々にして、いつの間にか人間の主人になってしまい、彼の動きのディナミズムやアゴーギクに影響を及ぼし、その人間性を因習的な仕掛け[メカニズム]の奴隷にしてしまうのである。(228)


ここでは「機械/生」という対立が前面に出てきている。拍子を「機械」的なものと考えていることがよく分かる。つまり均等拍のことなのだ。

もし今ダルクローズ先生がここにいて、ねえ、ダルクローズさん、あなたが問題にしているのは均等拍であって、本当の拍子や拍節ではないですよ、と申し上げたら、簡単に同意してもらえるだろうという気がする。

しかし、今の「リトミック」はどんなふうになっているのだろう? 二三、国内で書かれた書物を見た限りでは、この点に関する反省や修正は出てきていないように思える。拍子に関しては、あくまでも均等拍が前提されているように見えるのだ。だとすると、おそらくそれはダルクローズ先生の本当の志とは異なっている。