2008年3月3日月曜日

甲野善紀の仕事と音楽とを考え合わせる

なにしろテレビは10数年来ろくに見ていないものだから、一部そうしたメディアも上手に利用して知られてきていたらしい甲野善紀氏のこともほとんど知らなかった。

とりあえず手に取ったのが文庫本3冊。
どうもナンバ的な感覚がクラシックの拍節に真っ向から対立する・障害になるのではないかと思っていわゆるナンバ周辺のことを調べはじめ、甲野氏の本も何冊か読むことになったのだけれど、氏の「武術」の身ごなしは、そんな単純なものではまったくないのだった。むしろ、現にスポーツをはじめとしてあらゆる領域で様々な人たちによって応用が模索されているように、楽器の演奏にもそのまま当てはめて考えてみるべきことが多く、それがそれでまた僕の関心を引いている。たとえば甲野氏の身ごなしの具体的な出発点となった「井桁崩しの術理」。ヴァイオリンのボウイングなどは、この「井桁崩し」の動きそのものではないかと思う。「初心者」のボウイングは、肩を中心にした「ヒンジ運動」になる。それが、楽器、弓と組み合わさった「井桁崩し」にならなければならないのだ、と、この言葉を使えば、言える。(『身体から革命を起こす』にはまた、甲野氏のアドヴァイスを受けながら奏法を改良していったフルート奏者の話が出てくる。)

またたとえば、「表の体育」と「裏の体育」の相克に関する洞察は、平均律と均等拍に縛られた「表の音楽教育」の問題に重ね合わせてみることもできる。

拍節のことに話を戻すと、甲野氏の研究は(乱暴な纏めかたになるが)気配を消し、瞬発的な動作の効果を高める方向を向いているので、通常音楽に現れるような拍子や「リズム」は少なくとも表面的には出てこない。一方で、日本の、(クラシック的に見て)ダメな奏者のリズム感というのは、やはり現時点の僕にとっては、「ナンバ的」と名付けるのがしっくりくる。「よいナンバ」と「悪いナンバ」を区別するべきなのだろうか?

この問題、まだまだじっくり調べていかなければならないようだ。

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